元広商監督川本氏逝去

高気圧酸素ハードカプセルが広島県呉市に初上陸!!! 高気圧酸素治療装置では国内トップシェアを誇る川崎エンジニアリング の高気圧酸素カプセル「Dream Plus」。宮里藍ちゃんを初めとした トップアスリートが使用する高気圧酸素カプセルを宮迫鍼灸接骨院で ぜひ体験ください。
no

元広島県立広島商高野球部監督の川本幸生さんが2010年5月11日、
午前10時11分、大腸がんのため広島市の病院で亡くなられました。
享年53歳。

心よりお悔やみを申し上げます。

広島商監督当時の川本幸生さん 昭和63年8月
写真は産経新聞より

%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%95%86%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E7%94%9F%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%9D%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%96%EF%BC%93%E5%B9%B4%EF%BC%98%E6%9C%88%E7%94%A3%E7%B5%8C%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%82%88%E3%82%8A.jpg
 
 
川本さんは、広島商高2年生だった73年、堅守、好打の二塁手と
して春の選抜大会準優勝、夏の選手権大会では優勝を経験。
チームメートの3年生に元プロ野球広島監督の達川光男氏、現法大
野球部監督の金光興二氏らがいた。

広島修道大を経て社会人野球のリッカーでプレー。

85年8月に母校の監督に就任。88年の全国高校選手権大会で
6度目の優勝に導き、選手と監督の両方で全国制覇を果たした。

◆88年広島商の全国制覇 初戦の上田東(長野)に4―3で
延長10回サヨナラ勝ち。準々決勝で川崎憲次郎擁する津久見
(大分)に5―0、決勝でも左腕・前田幸長がエースの福岡第
一(福岡)に1―0と完封勝ち、15年ぶり6度目の夏の甲子
園優勝を飾った。

 
 
2006年に監督に復帰したが、翌年に2007年、くも膜下
出血で倒れて以来、入退院を繰り返していましたが、11日午
前、大腸がんのため亡くなりました。

 
 
  
2001/3/15 中国新聞 高校野球新世紀・第2部 白球列伝より
———————————————————–
監督としても全国優勝

甲子園で春準優勝、夏優勝。小技を駆使し、ち密な「広商野球」を
全国にとどろかせた一九七三年。エース佃正樹、主将の金光興二
(ともに元三菱重工広島)らヒーローを挙げれば、尽きない。

その一人として、二年生で二塁手だった川本を推す人も少なくない。
 
 
%E3%80%8C%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%8A%9B%E3%81%AF%E9%81%95%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E3%80%81%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%82%82%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%81%AF%E5%90%8C%E3%81%98%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%8C%AF%E3%82%8A%E8%BF%94%E3%82%8B%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E3%81%95%E3%82%93.jpg
「チーム力は違っても、選手と監督時代とも日本一という目標は同じだった」と振り返る川本さん
 
 
 
地味ながら、堅守で広商野球を支えた。夏決勝の静岡戦で、2点
リードの六回無死二、三塁。静岡の四番水野の二遊間を抜けよう
かという鋭い打球をダイビングキャッチ。超美技でピンチを救った。

「内角へのカーブを引っ張ると予測していた。それで、通常より
二塁ベース寄りに守っていた」。鋭い読みが生んだプレーだった。

捕手のサイン、投手の投げたコース、さらに打者のスイングの始動
の瞬間に、打球の方向を予測できた。「右打者でいえば、左肩の動
きで判断できた」と言う。「普通の選手なら超美技の打球も、いと
も簡単に処理してくれた」と、当時の畠山圭司部長も絶賛する。
 
 
%E5%A0%85%E5%AE%88%E3%81%A8%E5%B7%A7%E6%89%93%E3%81%A7%E5%BA%83%E5%95%86%E9%87%8E%E7%90%83%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%E5%B7%9D%E6%9C%AC%EF%BC%88%E8%83%8C%E7%95%AA%E5%8F%B7%EF%BC%94%EF%BC%89.jpg
堅守と巧打で広商野球を支えた川本(背番号4)
 
 
 
スローイングの技術も、際立っていた。本人が猛練習したのが、
併殺の際に多用するノーステップスロー。「目を閉じていても
送球できるほど、体に染み込ませた」。読みに、捕球と送球の
技術。

その卓越した守備力は公式戦、練習試合を合わせて88試合で、
失策はわずか1という金字塔を打ち立てた。

高校の華々しい野球生活も、「天国と地獄を味わった」。

三年の七四年は選抜2回戦敗退、夏は県大会2回戦で呉港に0―1
で敗れた。盈進―竹原の決勝戦は、球場の入場券切りをしていた。

その大会から金属バットの使用が認可され、チームもそれに併せて
バントなど小技を封印した。豪快なパワー野球への転換期だった。

しかし、卒業しても、広商野球は頭から離れることはなかった。

十五年後、指揮官としてチームを率い、甲子園に戻ってきた。

八八年夏の甲子園で頂点に導いた手腕は、見事というよりほかは
なかった。

「金属バットの影響で、パワー野球全盛時代。うちも春の県大会まで
はそうだった。しかし、勝つためにはバントなどを駆使した細かい野
球もいかに重要か、選手に気付かせることができた」。

その時にマークした26犠打は、大会記録となった。

選手、監督として全国優勝を味わった。「細かな野球だけが広商野球
ではない。その時代に対応した野球だ」。勝利へのあくなき執着心。

川本こそ広商野球の申し子であることに、異論はない。
——————————————————————-

コメント

この記事へのコメントはありません。

コメントする


※メールアドレスは公開されません。